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みさきの自己紹介 | 自分の理想のために貪欲に歩んでいく人生のキロク

はじめまして。みさきです。
ブログを見にきてくださり、ありがとうございます。

私は知識もスキルも実績も学歴もない専業主婦ママです。

私は父がMR・母が看護師で5人兄弟の長女として生まれ育った、
ごく普通の「保育園の先生」でした。

安定を重視する家庭。両親の後押しもあり、私含め5人兄弟全員が四大卒。

そんな私は今フリーランスへの道を歩み始めています。

「安定」とは程遠い「フリーランス」

先程も申しましたが、私は知識もスキルも実績も学歴もない専業主婦ママです。

このブログは、フリーランスに挑戦する私の成長記録でもあります。

なぜ私がフリーランスにチャレンジするのか
その理由をお話する前に私の人生のキロクを、
そして、これからの挑戦をお話しさせてください。

私の基本情報

-名前-
みさき

-職業-
元保育園の先生

-好きなこと-
旅行、温泉、ドラマ鑑賞

-家族-
夫と5歳・3歳の娘(2025年1月時点)

 

私の生い立ち

幼少期

おてんば娘と言われるほどよく遊ぶ子でした。
母親に幼少期の私の話を聞くと、

「やりたいこととなると周りが見えず、譲らない頑固さをもっていた子」

ととても頑固な子であったと聞きました。

小学生時代の経験

小学生ではいじめを経験しました。
でも、私はなぜか楽観的な性格でそれが”いじめである”と認識はあまりなく、
本当ちょっかい好きだなーという感じで受け取っていました(笑)

楽観的な性格と加えて、
いじめにあまりダメージがなかった原因のもう一つは一人の男の子のおかげでした。

鬼ごっこでは
運動神経が悪い私はいつも鬼。
鬼ばかりして疲れたなあと思っていたときでした。
静かに「はい。変わったるからどけ。」と男の子が一言放ちました。

その言葉が嬉しくて嬉しくて。

助けてほしい。を感じ取って手を差し伸べられる人になろうと
小学生ながらに感じたのを強く覚えています。

一生懸命励んだスポーツの結末

仲の良い友達がやっていたのもあり、
小学4年生からキックベースボールクラブに入り、土日の午前中は練習に勤しみました。

運動神経は悪かったですが、運動が大好きだったので楽しく通っていました。

年1回の大会に選抜されるメンバーは、
小学校6年生の先輩、そして上手な小学4・5年生が選抜されるといった感じでした。

たくさん練習をし、努力をして小学6年生の時に選抜されました。
大会には優勝したい一心で家族にも練習に付き合ってもらい、努力しました。
選ばれて嬉しかったことを今でも覚えています。

しかし、思いもよらない出来事が起こりました。

大会の1ヵ月前に5人くらいの同級生がクラブに入会し、
私はその中の一人の子と変わり、補欠となりました。

ズドーン、と岩がのしかかったような感覚でした。
あんなに頑張ったのに。という気持ちと
4年生からやってきた私が最近入会してきた子に負けたという事実をみんなの前で知らされたことへの恥ずかしさ。辛かった。

ですが、すぐに切り替え、
当日は補欠で思いっきり応援し、キックベースボールクラブの幕を終えました。

そこで学んだことは、

自分が主役じゃなくても
誰かを応援して、サポートする楽しさを知ることができたこと

中学校~必死にもがいた3年間~

中学は吹奏楽部に入りました。

文化系の部活でしたが、グラウンドを走る練習もあるほど体育会系のような環境でした。」

先輩が怖く、スカートが短かったら呼び出し。
通学用かばんをデコると呼び出し。
顔を見た瞬間挨拶をしなかったら呼びだしという感じでした。

私の兄が2つ上で私が中学1年生のときは中学3年生。
兄が仲の良かった先輩もいることもあり、2つ上の先輩には好かれ、楽しく部活に行っていました。

ですが、2つ上の先輩が卒業した途端。1つ上の先輩からの攻撃が始まりました。

1人で5人ほどの先輩に囲まれ、正座で説教をされたり、挨拶を無視されるなどを経験しました。

毎日部活に行くのが嫌で全然楽しくありませんでした。

親に詳細を言わず”やめたい”と伝えると
まだまだ昔は継続がよしとされる時代というのもあり、
「あとちょっと頑張ってみたら」と言われて続けることにしました。

何とか続けて、自分が一番上の年になりようやく開放されました。
その時に感じたことが上の人が正しいと言えば正しい世の中なのかもしれない。

10人の人がAを正解とわかっていても、権力のある人や年上というだけで
その人がBと言ったらBが正解になってしまうのかもしれない。
と社会の怖さを感じました。

高校受験

中学2年生の夏休みから受験のために塾に入り、勉強も頑張りました。
勉強はやればやるだけ伸びるので好きな方でした。

一緒に勉強する仲間もいて、毎日楽しかったです。
毎日講義がない日は自習室に通うほど熱心に頑張っていました。

中3の夏、塾の先生の教え方が合い、数学の成績が一気に伸びました。

塾生の中でトップの成績を出し、応用問題もスラスラとけるようになり、
そこから数学が楽しい!!!と感じ、メキメキと成績を伸ばしました。

結果的に自分が目標としていた公立高校に無事合格することができました。

自分は結果を出せることができるんだ。と自己肯定感が上がり
そして、「頑張った分結果って出るんだ」という貴重な経験をしました。

1度目の挫折 高校時代~大学受験

自信たっぷりで自己肯定感も上がり、
やる気満々で入った高校。

しかし、1学期の中間テストで下から数えた方が早い順位。
そこからひたすら勉強するが、全然追いつかない。

挫折を経験しました。
元々ギリギリでこの高校に合格できた可能性を考えると
それは当たり前の現実だったのかもしれません。

そこからは勉強が嫌になり、バイトと遊び三昧になりました。
部活も中学生の時に懲りて入部をしませんでした。

受験シーズンになると母親は先程も言った通り、
元看護士なので、看護師の道が安定だと背中を押され、
言われるがまま看護師の受験科目をやる気もなく勉強していました。

やる気もないまま受験勉強をしていたので、もちろん受験も失敗。

その時に看護師を勧めてきた母親を責めている自分。

その時にやりたいことはこれ!と言えなかった自分が
一番悪かったこともわかっている自分

そんな感情でした。

指定校・公募推薦受験は終わり、残り一般試験が残されたときでした。
母が外に連れ出してくれ、神社にお祈りに行った日のことでした。

自分がしたいことは何なんだ。自分は何が好きなんだ。と1日中考えていました。

私の小学生のときの夢は「保育士の先生」
こどもが大好きで5人兄弟の長女ということもあり、
下の子のお世話が大好き。ということ。

そうだ。やっぱり保育士になりたい。

今言わないと間に合わない!と思い、

母親に私が将来なりたいものは保育士なんだ。

と強く決心して伝えました。

意外にも母親は反論せず、「頑張りなさい。」という言葉でした。

そこから看護学科ばかり受けていたのを保育学科に変更。

父親は「子どもたちには四年制大学でたくさんの経験をしてほしい」
と大学費用を準備してくれていました。

四年制大学の保育科を受験し、無事合格しました。

「保育士の道に進む」と決断したことが
私の初めての大きな意思決定の経験となりました。

自分らしくいられた4年間

大学生活は保育の勉強が楽しく、
高校のときのやる気のなさとは反対に目を輝かせて学校に通っていました。

父親が言ってくれた大学の4年間でたくさん遊んで経験しなさい。
という言葉の通り、恋愛や保育の勉強、社会勉強たくさんの経験をしました。

父親に
「学生が終わったらずっと働き詰めだよ。今のうちたくさんの経験をしておいで」

と言われて、

「そんなになの?4年後は遊ぶことができないの?」

と驚いたことを覚えています。
と同時に言いすぎじゃない?とも思いました。

大学生活の4年間は
仲間にも恋人にも家族にも芯を持って向き合えたなと感じています。

2度目の挫折

いよいよ、進路を決める時期になりました。

公立保育士の情報を知り、
公立保育士を目指そう!と
大学でも上位の成績で人気な教授のゼミを受けることができました。

大学3年の後期からはまた受験勉強か…と少し憂鬱に思いながらも頑張りました。

そして、そこでも公立保育士になることが叶わず、
私立の保育園に就職が決まりました。

そこで私が感じたことは

公立保育士を選ぶ選定理由が
”安定だから”しかなかったこと。

それ以上に公立保育士の魅力のリサーチもせず、
ただ科目の勉強のみで、想いを乗せきれず面接に挑んだこと。

今考えると甘いな。とあの時の自分に言ってやりたいです

まだまだ、伸びしろだらけ。
そして、失敗の経験を積み重ねることも貴重なことだったんだと
時間が経った今なら前向きに捉えることができます。

保育園でのショックなできごと

園長先生も理念も良さそうと思って入った園。

初年度は1歳児の担任となりました。
1歳児の主担任の先生は優しく、子どもたちもおっとりしているクラス。
大変でしたが、やりがいを持っていました。

すると、年度途中に先輩の妊娠が発覚。
私含め他担任も負担をかけずにと尽力していました。

しかし、流産が発覚。

私が結婚をした年でもあり、私も赤ちゃんがほしいなと考えていたので、
今回のことが他人のことだと思えず、かなりショックを受けました。

保育士をしながら出産・子育ては私には精神的にダメだ!とやめることを決意しました。

この決断も学生のときに看護師の道をやめてまで、
自分で保育士の道に進んだのにやめるのか。ととても葛藤しました。

でもその時に旦那が

「自分の人生だから、自分の好きなようにすれば?俺は応援し続ける」

愛情表現が少ない旦那。言葉もそれほど多くない旦那。
その言葉に涙が溢れました。

いつか旦那に恩返しをする。
そう決めたときでもありました。

1年の事務経験が大きな転機に

保育園を円満にやめた後は大手企業の派遣社員で事務を経験しました。

新しい仕事ということもあり、楽しくやりがいをもって働くことができました。

業務内容は、会社全体の購買担当でした。
価格交渉や新商品に間に合わせるための納期調整・仕事効率化が主でした。

その時に感じたことは、社員さん含め、
ムダを省くための努力がなされていることでした。

保育士時代のときのように後輩が雑用をするなどの文化がなく、
どうしたらゴールに行く最短なのか。

新しい人が入ってきたら、新しい人を教えながらどうやったら最短でゴールに辿り着くのかこの一つの目標に向かって、業務をしていたので、
人間関係も苦しくなく、ただ、スキルを上げることができました。

残業はあったものの精神的にも体力的にも私には合っていた事務職。
家事と仕事の両立もでき、夫婦関係も良い時期でした。

保育士を辞めた劣等感を拭い去ってくれるほど、
魅力的な仕事がこの世にあるんだ。と。
私を救ってくれた仕事でもありました。

出産・育児の経験

25歳でわが子の出産。
12時間かけて無事出産することができました。

10ヶ月間お腹の中にいた子が目の前に。
嬉しくて愛おしくてたまりませんでした。

この子を守る。と強く思いました。

しかし、この子を守る!とはりきりすぎて
さらにはホルモンの影響で子どものことは私がするから!状態に。

そうなると当然旦那は休日は10時まで寝てるのは当たり前。
さらには出産前と同じ生活習慣。

そんな中私だけが生活環境が変わり、毎日睡眠不足。

人が変わったかのようにメンヘラ状態になり、
また、旦那が仕事をしてくれているのもあり、自分が我慢するしかない。と
完全に被害者モードになり、喧嘩もよくしました。

ある日、あまり言い返さない旦那が私に顔の血相を変えて、
「俺はどうしたらいいねん。何をしたら正解なのか。」と問われました。

私はその時にあ、私は旦那に八つ当たりしていた。
苦しいときに手を差し伸べてくれたことも忘れ、私は何をしているんだ。

旦那にどうしてほしいのか・何をしてほしいのかということの説明もせず、
子育てを旦那に任せようともせず
ただただ八つ当たりをしていたんだ。と我に返り、
1日娘を母親に預け、旦那と話す機会を設けました。

「家族はチーム」

これからの喧嘩は家族みんながいい方向に進むためのいい喧嘩(話し合い)にしよう。
ゲラゲラ笑いあえる家族をゴールにするための喧嘩をしよう。

と旦那と話し合いました。

そこからはお風呂に入れてほしいということは
服を脱がしておむつはゴミ箱へ、服は洗濯機へ、など
細かいことをしっかり伝えるようにしました。

少しずつ旦那に頼れるようになり、
そうすると次第に娘も旦那に懐くようになりました。

旦那の教育をする。旦那を動かす。などと
世間では言われたりもしますが、それは違うと思いました。

○○だからこうしてほしい。
と根拠を持って向き合って伝え続けることで、
次また同じことを言わなくても伝わる。
仕事にも活かせるスキルをつけることができました。

そんなスキルを身につけた子育て1年目でした。

そして、そんな日々が過ぎ去り、
2人目を出産し、もっと大変にはなりましたが、
家族としてはいい方向に向かっていました。

「家族はチーム」

今後の働き方について考える

社会復帰がしたくなる

次女が2歳になったころ、そろそろ働きたい。
1馬力ではなく、何かあったときのために2馬力に!
と毎日公園出勤をしていた私はふと思い始めました。

在宅ワークで何かできないかな?と思い、
物販や輸入販売・ハンドメイドの販売・クラウドワークスのライティングもやってみました。

でも、自己流で始めたので将来が見えない。と感じてしまい、
一度は断念しました。

社会復帰はしたいけど、

●自分のスキルで誰かの役に立ちたい
●子育てと育児の両立をしたい
●保育園にいれるとしても16時ごろのお迎えにして子どもとの時間も取りたい
●パートでただ時間が過ぎていく仕事は嫌だ
●旦那に恩返しがしたい

そんなことを強く考えるようになりました。

社会復帰したい。でも・・・
誰にでもできる仕事は嫌だ!私にしかできないことがしたい!

オンラインスクールとの出会い

在宅ワークの認知度が上がり、
Instagramでもたくさんの情報が出るようになっていました。

クラウドワークスで何かしようと考えていたのもあり、
CANVAのことをInstagramで検索していました。

その時見つけたのがこもりんのCANVAアカウントでした。
その後こもりんのアカウントもしばらく追っていました。
同じ保育士でしかも、親しみやすく正直。そんな印象でした。

そしてある日、リモラボのセミナーが開催されるとの情報があり、
いまだ!とビビッときた私は申し込む前提でリモラボのセミナーに参加しました。

これも大学受験のときの自分で決断をした経験があったからこそ、
勇気をもって決断できたのだと思います。

スクールでスキルを磨けば実現できる!とワクワクして入会をしました。
そして、そこから私の未来の成長が始まります。

リモラボに入会。
~はじめてのオンラインスクールに~

現在のお仕事

現在はインスタ運用代行をしています。

そのお仕事を獲得したのも簡単ではありませんでした。
はじめはクラウドソーシングに何度も何度も応募しました。

諦めない。
自分の目指すべきは自分にしかできないことで月収30万円を在宅ワークで叶えるんだ。
それを書いて、壁に貼って毎日頑張りました。

現在は

〇子育て系アカウント
〇グルメアカウント
〇美容アカウント
〇システム開発系アカウント

こちらのInstagramのアカウントの運用と制作をしております。

専門的なお話になるのですが、
集客の貢献ができたことも多々あります。
ですが、まだまだ実力不足なところも正直あります。

ここで終わりたくない。
もっともっと再現性高く上を目指していきたい!

例えば、100回打席に立ったら80本ホームランできる人になりたい!

貢献したい気持ち
自分がどこまでできるのかと挑戦したい気持ちが沸々と湧いてきたのです。

いま、挑戦するしかない。

社会復帰をしたい。でもパートは嫌だ。

社会復帰をしたいけれど、パートは嫌だ。

そんな思いを持ち、始めた在宅ワーク。
今年は新たにWEBマーケティングコースの受講を決めました。

正直、はじめは今の現状でもゆっくりスキルを上げていくこともできました。
でも、長女は5歳。来年は小学生。

家計的にも今まで以上に節約生活が待っている。
節約生活をするとなると私の性格的にそれなら働く!となる。
だとすると正社員かパートで働かざるを得なくなる。

経済的な面・精神的な面
様々な角度から見ても

この1年だ。
私はこの1年で大幅にスキルアップするんだ。と思いました。

また、一歩大きな決断をしました。

その決断にワクワクしていて、リモラボに入会したときの気持ちになりました。

リモラボに入会してスキルアップができるという経験をしたので、早く決断することができました。

WEBマーケティングコースを学ぶ1年

 

WEBマーケティングコースでは、
主に

・ライティングスキル
・マーケティングスキル

を学びます。

このコースの醍醐味は
WEBマーケティングのプロである青木さん直々にライティングスキルの壁打ちができること。
株式会社キークエストのHPはコチラ

壁打ちとは、
・自分の思考の方向性が合っているのか
・再現性が高い考え方をしているのかなどのアドバイスを聞けることです。

今回のWEBマーケティングコースも決して簡単な壁ではない。
たくさんの課題もあります。
でも10ヶ月本気でぶつかってみよう!と炎がみなぎっています。

最後に

私の目標は在宅で1年後に月30万円の収入を得ることです。

そして「自分主役の人生を送りながら、子どもや旦那との時間を大切にし、さらには両親への親孝行もする」という理想の未来を手に入れることです。

この目標をパートでも正社員でもなく、在宅ワーク
さらに平日のワンオペ育児をしながら、WEBマーケを学びながら、

この1年どう成長していくのかのプロセスも失敗談も含め、赤裸々に記します。

どのように達成するのか、私の成長記録を見てもらえると嬉しいです。
そして、それが参考になれば嬉しい限りです。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。